京都

YOSHIHARU MISHIMA
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KYOTO

京都と蕎麦

東京での修行から京都に戻ってきた1980 年当時、京都には手打ちそば屋がなかった。もちろんそば屋自体はあったが、京都にそばを食べる文化」がなかった。というよりも「そばを食べる必要」がなかったという方が正しいかもしれない。

その昔、幕府は江戸、天皇陛下は御所へ。1000年以上都があった京都には食べ物があふれていて、そばは地味で雑草に実がついたような「雑穀」であるという意識が庶民の中にあったのかもしれない。一方で、江戸や東北は全体的に寒いため作物が育ちにくい。 そばが普及したのは、どんな土地にまいても育つという大きな利点があったからだろう。また千葉の銚子は醤油の産地ということもあり、関東では濃いたまりを活用した「かえしのそば」などが受け入れられやすく、そば文化が根付きやすかった。 

1980 年、東京での修行を終え京都で本格的にそば屋を始めるとき、競合なんていなかった。これは一見、商いをする上で有利なように見えるが、京都にはそもそも「そばを食べる人がいない」ということがあったので、これには本当に苦労した。 麺打ちの機械が普及し、手打ちそば職人が減少している中、京都に戻ってきた。 取材や組合イベント、新聞などの宣伝活動に力を入れ、とにかく「そば」という文字を世間に広げる努力をした。

当時、京都はもちろん全国的にそばの業界に若手職人がいなかったことが懸念されていた。最近になり、ようやく京都でも職人を志す若者が出てきた。あの頃目指した「京都とそば」のイメージにはまだまだ到達できていないが、少しずつではあるが、確実に近づいていることを実感している。

粘り強くやっていかねばならない。まだまだこれからである。